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戦場の爪痕 山城壕(糸満市)戦後75年 [市町村]

令和2年6月29日「山城壕 糸満市」


山城壕マヤーガマ


サキアブ(山城陸軍病院本部壕)

 沖縄県糸満市字束里の未収骨壕(山城壕)の遺骨調査・収容作業





内容(要約)
糸満市の山城区と束辺名区の境界付近の山中に、
沖縄戦当時一家5人が生き埋めになった山城壕がある。


住民証言によると、
1945年の梅雨の時期、
山城壕には桃原一家6人が身を潜めていた。

砲撃で壕の岩盤が崩れ落ち、
5人を中に残したまま壕口がふさがれてしまった。


証言によると、
「夜、男たちが山城壕に出かけ、
道具はないから手で岩石をどかした。
明るくなると攻撃が始まるから、
その前に戻ってきた。」

「崩れた岩の奥から『助けて』と声が聞こえる。
奥で生きているんだ」。

連夜作業は続けたが、2~3日後に声は
途絶えた。



戦後、山城区は行政に遺骨収集を求めた。
75年2月に1回、翌年2月、そしてことし2月末。

3度目の遺骨収集で足の骨の収集。

3度目の作業について山城区は喜べなかった。
事前連絡がなく、気づけば山城壕が整地されていた。

厚労省に問い合わせると、壕は束辺名区に位置することから
山城区には連絡せず、今回の作業で遺骨収集は「おおむね完了」
したため、整地したという。


「犠牲になった桃原一家の遺族、関係者に対して
何の連絡もなくつぶすなんて」。


資料に残された壕の目印となる大きな岩も
見当たらない。

想像もできない、山の形も変わっていた。



戦後75年がたち、体験者の減少に加え、
安全の確保などの理由から非公開となる
戦績が増えていることにも危機感を感じている。


歴史を語り継ぎ、戦績は当時の様子を感じ取れる
大切な場所。体験の記録と同様に戦跡の保存も重要だ。

行政的な考えで消滅した山城壕。

事務的に戦後処理を進める国、
歴史を語り継ぐ住民との意識の差を感じる。



感想

近くは平和創造の森公園があって、
天皇陛下を招いての植樹祭が開かれた場所があり、
そのそばは、米須海岸が広がり、通称スーサイド
と呼ばれるサーフィンで有名な場所。

またさらには、全国の慰霊の碑やひめゆりの塔など
と戦跡墓苑が続く。


地上戦の最終場所地域、断崖絶壁の海が
どこまでも続き、家族で楽しめそうな広い公園、
のどかなサトウキビ畑。「ざわわざわ・・」と
口ずさみたくなる場所。





全国の慰霊の碑

道路沿いは、すべて死体だらけだったことを
80代前後の人は知っている。

さとうきびの赤い部分はそんな人の血を吸ったから
赤いんだと聞かされたことさえある。


山城と言えば

本当にのどかで、行けば昔が見える。

昔を思い出す。

人も少なく静かな場所だ。


戦争遺産というのか、それが
将来の観光資源と捉えるのか、
また後世語り継ぐことで、
幸福や平和繁栄のシンボルとするか。

まったく、「無」の状態にするか。

いつか忘れ去れられ、「元」という
場所に過去をしらない、そして昔は
昔と思える人物たちがいずれそこに
住むのであろう。

遺すことは守ること。草刈りして
きれいに保存をする、当たり前のことを
やり続けなければならないことでさえ、
過疎化という問題もあるのだ。

口では頭ではわかるが、体がついてこなくなる。

本当に戦跡の問題は、どのような形で残すべきが
ちょうど重要局面に差し掛かっている。





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