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「照喜名商店が閉店」1月9日沖縄出来事ひとりごと [市町村]

地域のお店
がまたもや
消える。

それも
無駄な道路拡張だ。

家族を育てるために
一生懸命一緒に生きてきた
命(店)を奪うことに
なんの意味があるのか。

今の世の中に警鐘を・・


沖縄の県木として、

「デイゴ」。

に並ぶ有名な木、



「ガジュマル」。


その大木に成長した
ガジュマルとともに
南風原町大名の
照喜名商店
町道の拡張工事に
伴い閉店する。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-237035-storytopic-5.html

地域の憩いの場として
利用されたお店も
約50年の営業
幕を下ろす。


時代を見つめ地域を
見守ってきたお店の
閉店に、町民は何を
思うのか・・





店主の照喜名ヨシ子さん(87)は

「休む暇もなく繁盛していたころが
懐かしい。
よく買い物に来たのは
地域の常連客や大学生だった」

昭和時代を振り返る。


かつて首里王府と各地の
間切(現在の市町村)
結んでいた道で、首里からの
情報は宿道を通じて各地に
伝えられた。

現在も交通量が多く、
車があわただしく
行き交る。

ひときわ目を引くのが
樹齢100年(推定)以上の
ガジュマル。

木陰は心地よい風
吹き、車がなかった時代は
急な坂道を行き交う人々の
休憩所だった。


1965年ごろ、
ヨシ子さんは夫の名清さんと
一緒に自家製豆腐の販売を始め、
徐々に食料品や日用雑貨を
取り扱うようになった。


正月や旧盆には地域の常連客からは
注文を受け、正月料理やお歳暮、
お中元を那覇の市場から
卸していた時期もあった。

しかし、時代の変化でスーパーや
コンビニが増えるにつれ、
客足は鈍くなってきた。


ガジュマルの樹と共に歩んだ
50年。

ヨシ子さんは

「店を閉めるのは寂しいが
地域の人々に大変お世話になった」
と感謝の思いを語っている。

町道の拡張工事に伴い、
ガジュマルは3本中2本が
伐採され、商店と住宅の一部も
2月中には取り壊される。


地域のシンボルがなくなる
寂しさ・・


10日午後5時から同店で

「閉店の集い」

を行う。


道路拡張に伴う全ての
新しいことは果たして
世の中の前進か交代か

地域の特徴は
財産。
修復や改装などの
手段で長く残す方法
問われていると思う。


「日本一の伊良部大橋つながった」12月27日沖縄出来事ひとりごと [市町村]

全長3540メートル


県内最長


無料で通行できる



国内最長となる
伊良部大橋の
連結式が
9月9日に
行われた。




宮古島と伊良部島の

二つの島が
陸路でつながった。

長年の悲願

夢の懸け橋

来年1月31日の

開通を目前に
工事は最終段階を
迎えている。



開通に先立ち
来年1月25日には

記念ウォーキング

が行われる。



まさに

海を歩く人


ウミアッチャー

普通は漁師のこと


具志堅用高さん
のお父さんも
ウミアッチャー





普通に
ウォーキングでも

この
記念ウォーキングの
重みは

歩きながら

泣きだす人

泣きながら

歩く人

様々な思いがあるだろう。


歴史の1ページとなる
この記念ウォーキング


参加する意義が

あまりにも


大きすぎる・・


歴史的瞬間に
ふさわしい


いろんな思いが
交差する
人間交差点

いや

人生の先を歩く人が

次なる後輩のために

穴を埋めたり


橋をかけたり


親切にも
渡れるように
してあげる


なぜ
そうするのか



そう

あなたも

歳を取れば
わかる

老いていくから
わかる。。





「減量33チャレンジで表彰」12月24日沖縄出来事ひとりごと [市町村]

「イチキロヘラス」



沖縄県民の
合言葉
なりつつある。

タンザニアで野球教える上原さん


バナップルってなんじゃ?

 ↓  ↓  ↓





車社会の沖縄

かつ

夜型社会


なんでだろうね。

みんなが
みんなそうではないが、
やはり

島国

模合もあれば

同志の集まり

いかに

コミュニケーションを
はかり


いかに
地域で
生きるか・・


ノミュニケーションも
大人が見本だから

夜9時には
帰りましょう。

GO家(ゴーヤー)運動も
少しずつ
浸透するんだろうね。

ところで

イチキロヘラス
もう県民総ダイエットの
標語になり、
みなそれぞれが
運動や食事制限など
自分のペースで
取り組んでいると思う。

しかし

33

って何だろう。

沖縄市のほうでは、
ことし8月から
10月いっぱいまでの
期間限定で

市民参加型の
ダイエット大会

「3センチ、3キロ
減らそうチャレンジ活動
(33チャレンジ)」

という活動があり



見事にその期間で
目標を達成された方9人
が表彰されたよ。


大会1部
「あなたの肝臓大丈夫?」
と講演会。

アルコールで肝硬変になる人
日本全体で13%

対し

沖縄は・・

40%

デ~ジヤッサー


もちろん
アルコール、
生活習慣の乱れ

増加傾向に。


若い世代ほど
飲酒と生活習慣の
改善が必要に
なる。


脂肪肝と適度な運動は
関係する。

足の筋肉があると
脂肪肝になりにくい。

食事療法もちろん
グッドだが

運動療法も
合わせないとね。


申込人数80人
(男28人、女5人)

最終報告で

40人の体重は
平均2.1キロ減、

最高は
なんと
9キロ減。。


参加者の
平均年齢は47歳、


多少きつい
運動もしないとね。

ちょっと
しんどいと

「無理してる?」
とセーブし、

気がつけば

やったり
やらなかったり

やがて

自然消滅


年の瀬にあたり


一緒に
がんばろうよ。

みんなで
やれば
上等さ。


「東京五輪の聖火のあれは私」12月20日沖縄出来事ひとりごと [市町村]

たまたま
地方新聞に
掲載された

「聖火リレー
熱狂今に/西原・仲道さん
東京五輪時撮影」

の記事。


世界の具志堅用高さん生まれ島で一日署長





「あの時の
聖火ランナーは私」
と名乗り出る人が。

宜野湾市の
宮城武正さん(72)
がその人だ。

撮影者の
仲道正永さん(67)
とご対面。

半世紀前の
輝かしい光景が
まざまざと
よみがえったと

若かりし日に戻って
互いに喜びあったよ。


東京五輪の
聖火が宜野湾市を
駆け抜けたのは

1964年9月9日。






当時17歳の仲道さん
普天間の急宜野湾市役所
(現在はサンフティーマ)
の正面にある商店屋上に
上がって撮影。


市役所職員だった宮城さんは、
学生時代から
アタッカーとして
活躍したことから
教育委員会の職員から
声がかかり
旧市役所から市上原の
バス停までの
区間ランナーとして
走ったよ。


「走る人がいなければ
やっていいよ」
と軽く受けたつもりが

沿道には大勢の人が
いるし紙ふぶきは舞うしで
こんなに大きなこととは・・」

笑う宮城さん。


日の丸の小旗を持った
小学生らで沿道は
あっという間の人だかり。
電気ボックスの上まで・・

今では考えられない
光景だったようだ。

宮城さんは
50年前の
聖火トーチを
持参し、
仲道さんの自宅を
訪ねた。

当時の写真を基に
当時の様子を語りあう。

話しはよどみなく
聖火リレーから
戦後の沖縄までと
次々に広がる
沖縄の昔ばなしに
花を咲かせたようだ。

東京オリンピックが
やって来る。

50年前に
走った証を
孫たちに伝え残す
いい機会になったようだ。

あの頃は若かった

そうみな若かった

やれなかったこと

できなくて
悔いが残ったこと

やっぱり若かった・・

それは

クヮンマガ
(子や孫)に
伝え
そんな昔ばなしが
一番の薬。

無心に
輝くオジーは
クヮンマガに
一番のヌチグスイ(命の薬)ヤサ。


「島のことわざ」12月17日沖縄出来事ひとりごと [市町村]

「大和ぬ世から
アメリカ世から
また大和ぬ世」

と言われるように
戦後70年、

沖縄の履物をめぐる
状況も大きく
変わった。

地域が楽しい


沖縄月星は1951年、
創業者である
松本清福さんが
国際通りで
靴販売業の
「松本商店」
創業。

終戦間もないころで、
はだしの人も多く、
沖縄復興とともに
靴が急速に
普及していった時代。

商品をだせば売れる時代。


弟の松本正巳さんは
オリンピック直前の
63年に入社。

当時は東京の
東洋大学に通い、
そのまま東京で
就職しようと
考えていた。


東京はオリンピック
景気に沸いていた。



しかし、
創業者である
兄から

「東京にいるのは
大学まで」
と言われていたし、

「生まれ島の
言葉忘れたら
苦にも忘れる」
ということで、
沖縄の兄の事業を
手伝うことにした。


東京から沖縄に
帰るのは
今とは違って、
かなり大変な時代。

飛行機の直行便は
あったが、高値の花。

東京駅から
鹿児島まで
30時間以上
「急行きりしま」
という蒸気機関車が
を利用した。



鹿児島に着くころは
顔はすすで
真っ黒に。


鹿児島からさらに
一晩かけて
沖縄に戻る。

鹿児島から
乗った船は
揺れて
洗面器を
みんなかかえていた。


とてもきつかった。


ただ、船で
しまくぅばが
聞こえてきて
自然と故郷に
帰れるという
高揚感で
いっぱいに。



「地域が楽しい、だからマップ」12月16日沖縄出来事ひとりごと [市町村]

12月もど真ん中
何を
やらないとと
思いが空回り中・・

なんか
あせる・・

沖縄は野党が全勝!しかし・・


MA-1って・・
 ↓  ↓  ↓







今や
どこに出かけても
週末は
催事やイベントが
行われている。

けっこう
祭り好きな
ウチナ~ンチュ。

昔は
やんばるをドライブ
して海洋博に行くのが
思い出。
お昼は
「そばをたべる」

大人になって

お出かけは
近くの
スーパーや
DIY、
ジャスコも
どこにでも
ある。

どこ行っても
一緒だな。

だんだん
難儀なって


「地元が一番
静かな地元で
遊ぶのが楽しい」

逆に地域思考は
俺だけか。。

そんなことはない


大学生もプロジェクト
は結果的に

「住んでいるところ」

「沖縄」
キーワードになると思う。

国際人にという言葉
英語を学ばせようと
世の中動いているが

もっと大事な
地域の方言や
親戚とのつながり
お父さん、お母さんの
兄弟姉妹、
伝統行事など
足元をみれば
様々なことが見える。




逆に外国から見たら
「なんで?
静かだな。。」

みんな仕事で遅い
家にも地域にも
人がいない、
だから
静かだからいい・・

なんて
なったら本末転倒だね。


最近は
地域マップ作りも
遊びとしては
楽しい。

どんなお店があり
誰が代表者で
何のお店かなど
角度変えれば
いろんなものが
わかるし、
自力・自立で
がんばって稼いで
家族を養いながら
まじめに

人生を一生懸命
生きている人が
多いのが

「地域」
だと思うよ。


子どものうちから
地域に関心を持つこと
ほど

伝統行事や

地域行事に

やがて

関わるきっかけに
なって
将来につながるね。


子どもなんかは

猫のたまり場など
視点がいいよね。

いろんな

発見は

地域がおもしろい。


そこから

すべては

つながる。。



「ありがとう伊良部航路」12月13日沖縄出来事ひとりごと [市町村]

来年1月末に
伊良部大橋が
開通することに・・

糸満から五輪選手を




それに伴い
なくなるもの・・




長年
地域から
親しまれてきた
宮古島・平良港と
伊良部島・佐良浜港
間の
伊良部航路が
廃止される。

多くの船員が
尽力し、

雨の日も
風の日も

人を
物を

運び続け、
地域の暮らしを
支え続けてきた。

両岸を結ぶ
最後の師走を
迎える。


そんな中
愛着を持つ市民からは

「船がなくなるのは寂しい」

と惜しむ声が聞こえる。



来年1月31日

この日が最後となる

宮古フェリー





はやて



両社合わせて
一日当たり
36往復程度を
運航。

年間60万人余り
を運び、
市民の足として
親しまれてきた。


このフェリーで
生まれた命もある。

地域経済も
支えてきた。


一様に
感謝の気持ちで
いっぱい。。


これから
年末年始で
帰省客や
貨物で
ますますにぎわう。


最終運航の
日が近づくにつれ
こみ上げるものが
ある。

従業員のことを
思うと
なくすのは
忍びないが
地域の人に
支えられ
今日がある。



最後の
最後まで
逆に

気を引き締め
安全運航に
余念がない。






「糸満から五輪選手を」12月12日沖縄出来事ひとりごと [市町村]

糸満のスポーツロッジ

市営プール


頑張れ翁長知事!ハイサイで始動 沖縄




平日の
日中、
2コースほど
使って子どもたちが
水トレ中。

そのコースの
上で腰かけに
座っている人物。

水泳界では
大変尊敬される人物が
今日も子どもを見つめている。

40年にわたり
子どもたちに
ボランティアで
水泳を教えている
糸満市の上原秀雄さん(75)。

http://www.city.itoman.lg.jp/docs/2014120100029/

このほど
水泳界の普及と発展に
貢献した功労者として

日本水泳連盟から
表彰を受けた。

上原さんは
「育成者として
糸満からオリンピック選手を
輩出したい」

とさらなる
情熱を
燃やしている。





同連盟90周年
にあたり、

水泳競技の
普及と発展に
貢献した人や
オリンピックや
メダリストなど、
全国から120人が
選ばれた。




今回、県出身者は
上原さん一人。


上原さんは現在、

「翔洋スイミングクラブ」
の代表責任者として

糸満市の
小中高生に
週3日、
無料で水泳を
教えている。


約40年前、
教員として
赴任した
沖縄水産高で
水泳指導を
始めた。

もともと
バレーボール選手だった
上原さん。

「海に近い糸満の
学校なのに、
泳げない生徒が
大勢いた。

これではいけない」

と奮起。


水泳部を結成し
夏も冬も
始動に打ち込んだ。


指導の手腕を見込まれ
1987年の
海邦国体では
水泳競技の
強化委員長に
任命された。


退職後も
市内小学校で児童に
水泳を教えたり
スイミングクラブを
立ち上げたりと
水泳一筋、
情熱を注いだ。


「泳げない子どもが
水に顔をつけて
スイスイ泳げるように
なる。やれば
できる。
その姿を見るのが
たまらなくうれしい。
それがやりがいだ」


現在の目標は

「海人の町」
糸満から、
2020年に出場する
水泳選手を輩出することだ。




育成者として
燃えている
上原さん。


情熱は衰えず

厳しさと愛情に
満ちた水泳指導は
続く。

6年後81歳に
なる上原さん。


最後の大仕事

半端な思いじゃ
できないと
いつも思っていたけど。。


ちゃんと
大きな夢があったんだね。




イッペー
チビラーサンヤー

「沖縄グルメ頂上決戦」12月4日沖縄の出来事ひとりごと [市町村]

11月29、30日の両日、

北谷公園野球場前広場で
第5回目となる

C-1ちゃたんグルメバトル
記念大会の

「第1回沖縄グルメ頂上決戦」

が行われたよ。




ハワイ州知事にイゲ氏就任、沖縄との懸け橋に





2日間で
約3万2千人が
訪れたよ。

県内各地から
集まった

飲食店15店舗が
自慢のメニューを
提供したよ。



審査の結果


グランプリ

居酒屋おきなわ畑(北谷)

「柔らかサーロインステーキ丼」

に決まった。




2位

カフェレストラン&バー
ダブレ・デッカー(北谷)
「とろとろたまごの
ビーフオムライス」




3位

居酒屋・沖縄ダイニング

でーじな豚(北谷)

「幻のアグー豚トロ
炎の炙(あぶ)り丼」




各店舗の
メニューを食べ比べた後、
お気に入りの店舗の
ボックスに投票用
割りばしを
入れる仕組みだ。


北谷といえば
中部


中部か・・

北部や

南部の参加は


けっこう
どうかな。


南部中部北部が
それぞれ
自分の地域で

自分の地域の味を
目指しているよ。


今回の
グランプリも
他の飲食店も
参加してより
向上心や
自分の料理に
自信を深めたと思うし、


他の地域の
みんなも

「なんでよ?

負けるか~や~」

って出もしないのに

そんな声が
聞こえてきそうだよ。


なかなか
表に出無精なところあるからね

祭り好きな県民性、
それ考えると

こういったイベントは

もっとやってほしいね。

眠れる飲食店に

火がついたはずよ。

やれば
できる

そんな人多いからね。


今度は

南部でやるとか


南部でも
こういうの
企画すると

うちな~ちゅ

お祭り好きだから

いっぱい
人来るはずね。





「高齢者の買い物支援」12月1日沖縄出来事ひとりごと [市町村]

気がつけば
12月。

11月もあっという間に
走り去ったね。

やり残しがないように
12月を過ごしたいね。


久米島シュガーライド




糸満市には
竹富ハイツがある。
すぐ隣は豊見城市。

少し車を動かせば
大きい
スーパーがある。


高齢化が進む中、
行けそうでいけない距離、

人の通る道、

高齢者の買い物支援を
地域が考えた結果、

同ハイツの公民館前広場で

移動が不便な
高齢者の買い物を
支援する

「第2回竹富ハイツ商店」
を開催。


五つの事業所が出店、
新鮮な野菜やパン、
日用品などを
販売した。


商品を求めて
足を運んだ地域住民は、
ユンタクに花を咲かせ、
広場はにぎわいを
見せた。


何がいいかって?

「協力」かな


市社協と自治会の協力、

高齢者の買い物と
地域住民の交流。

交流があると
情報交換も
できるし、

悩みや相談もできる。

自分を知ってもらい、

何かあれば
協力できる。



知らないと
協力しように
できない。



今回は

コープおきなわ
とヤクルト、
障害者支援施設
太希おきなわ、
就労支援センター
たまん、
就労支援事業
ぴゅあ
が出店。


数年前までは
5~7店舗の
商店あったけど、
現在はすべて閉店。
昔は消費税も
サービスしよったのにね。


みな
惣菜やら
牛乳に豆腐と
購入。

しかし、
この重い荷物を
1回ではなく
2回に分けるなどして
持ち帰ったよ。

家から近いから
できるさね。


夕食が一品増えたって、
喜んでいたよ。




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