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沖縄復帰を振り返る [総合]

今から46年前の
1972年5月15日は
沖縄が日本に「復帰」した日。





学校では、授業で
あるものを紹介し、
初めてみた〇〇にびっくりと緊張。


それまでの沖縄



復帰前は、
アメリカだった。


イントネーションは、
「アメリカ~」って語尾がのびる。


1ドル365円だから、
子どものときは
1銭まちやに行けば、
塩せんべいも
ジャムチョコも
ちょっとしたお菓子は買えた。
困らなかった。


5セントや25セントなんて
もってたら、何でも
買えるぐらいに思ってた。


チューチューにパッチー、
ビー玉、プラモデル・・



復帰の日は、
学校では復帰の話しや
ドルではなく
日本円になる話があったね。


初めて日本のお札見たのは
五百円札」だった。


強い衝撃があった。


背筋がピンと伸びるような。


今どこに行ったか知らないけど、
あまりの珍しさに五百円札は
アルバムに収集したなあ。



戦争

73年前に日本とアメリカが戦争して、
日本が敗れた。


沖縄にはアメリカの軍隊が上陸し、
日本軍との間の戦闘に、
沖縄に暮らす住民が巻き込まれた。


沖縄戦の激しい砲撃で、
沖縄は焼け野原。

県民の4人に1人が亡くなる
悲惨な結果。


戦闘が終わった後も、
地上戦に勝った米軍は沖縄に
居座り続ける。



1952年に敗戦国の日本は
独立を認められるが、沖縄や
奄美、小笠原諸島は独立した
日本から切り離され、アメリカの
占領下に残された。



沖縄戦が終わった後は米軍は
住民を収容所に入れている間に
新たな基地を造るなど、
占領体制整える。


米国民政府(略称USCAR)という
組織が沖縄の司法、立法、行政に
目を光らせ、アメリカの意向に住民を
従わせる統治が進められた。




日本国内に行くのに
パスポートだったからね。


進学で県外に行くときなども。


行ったら行ったで、
名前の珍しさ、イントネーション、
仲間意識が強いウチナーンチュだから、
それがかえって、どんな扱いを受けたか。


今はだけど、
具志堅、仲村渠、辺士名、屋嘉比、安慶名
安座間、阿波根、大見謝、我如古、喜屋武、
志喜屋、謝花、勢理客、手登根、渡慶次、
名嘉真、根路銘、平安名、目取眞、饒平名、涌稲国・・


なんもない、裸一貫の覚悟だから、
ある意味たくましい先輩方は多い。



当時は、どこ行っても背が高く
ジーパンで闊歩するアメリカ人の姿は、
かっこよく目に映ったな。



金持ってる、かっこいいという
イメージ。


ファッションは、ジーパンが似合う
人たち。



今だから聞こえる当時のあんなこんな
飲み屋でのこと、事件事故はとにかく
耐えないという過去の話し。



いつもフェンスに広大なアメリカ軍基地は
当たり前の景色で、でも、アメリカ―は
嫌いとか何とかではなく、ことあるごとに
「きっかけ」みたいにはなっていた。



マクドナルドを始めとする
アメリカナイズされたものは、
すべて流行の最先端、アメリビジネスは
必ず成功するとさえまで思っていた。



少なからず、ライバル視ということなく、
意識の中では身長しかり、かっこよさしかり、
学力、スポーツと「負けたくない」
という思いはいつもあったし、
静かに育っていたね。



自立」という言葉が
濃かった。今でももちろん、
今こそ「自立」すればすごい才能の
眠れる存在、可能性が隠れている
ウチナーンチュは多い。


最初は、南さおりとか歌手系
フィンガー5、安室奈美恵を代表に


世界一民謡の多い島沖縄らしく、
独特のイントネーションに
こぶしがあり、DNAは引き継がれている。


音楽イコールリズムであり、
スポーツの世界にも、
一旦世界に道を開けば才能を
開花させる。特に女子は
遠くに行くほど、リーダーシップに
個人の技量をスキルを最高レベルで
発揮する子が多かった。


具志堅用高さん、宮里藍さん、
比嘉大吾さん 名前知らずとも実績の
スゴイ人は多い。



5月15日は
沖縄復帰の日。


復帰イコール自立。


自立イコール個人の人格向上で、
沖縄には大企業の進出多いけど、
今こそ観光客増加しているけど、
先輩方の功績を伝統に誇りに、


武器ではなく、最後は人格勝負で
行こう。


人格の向上イコール心技体の満足で
活躍するそして、昔を忘れない
心ある協力心のあるウチナーンチュが
育つことを願う。

























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